音楽学校時代

人生初、音楽の専門教育

東京声専音楽学校は、
中央・総武線の大久保駅から徒歩5分のところにある
声楽家・下八川圭祐氏が昭和15年に設立した専修学校。

氏は、戦前から戦後間もない時期に活躍したバリトン歌手で
世界的テノール・藤原義江氏の盟友だった。

もともとは下八川氏の声楽教室から始まった学校なので
音大ではなく専修学校といえど、
声楽教育では古参の名門校と評価されていた。

下八川氏は藤原義江氏の後を継ぎ
藤原歌劇団の二代目総監督となっていたこともあり
当時の校舎内には
藤原歌劇団の事務所と稽古場が同居していた。

歌劇団のスター歌手たちが
学校教員を兼務していたり、
イタリアからの招聘講師による公開レッスンは
歌劇団と学校で共催のような形式をとって
学生も受講可能だったり、
歌劇団の本公演のエキストラ募集の
声掛け対象にもなった。

つまり一般的な音大よりも
「現場」に近い環境であった。
学校の授業カリキュラムも音大と同じ。
にもかかわらず学費は音大の半額。

当時はすでに
専修学校より音大を選ぶ人が大半だったので、
学生数は少なかった。
私の同級生は
声楽専攻とピアノ専攻を合わせても15~16名だった。

少人数状態だったおかげで
音大と同じ内容の教育を
音大よりもはるかに少人数で受けることができた。
私にとっては人生初の音楽の正規教育の場であった。

また同級生たちは、
実力や才能というよりも金銭的事情で
音大進学が叶わなかった者が多かったので
音大特有の「お嬢様学校」的雰囲気とは全く無縁であった。

「音楽の世界で仕事を経て
プロとして生き残っていくにはどうすればいいか?」
ということを考えているタイプが大半だった。

ピアノを身近に取り戻す

音楽学校に入って何よりもうれしかったのは
1時間100円でグランドピアノのある練習室を
レンタルできる状態になったことだった。

また副科という形ではあったが
ピアノの個人レッスンを毎週受けられることも
喜びだった。

藝大受験を意識し始めた大学3年から
当時の声楽の先生に紹介されて
二期会の伴奏者でもあった東京音大の講師のピアニストのもとで
ピアノの個人レッスンを受けていたが、
金銭的事情もあり隔週で通うのがやっとだった。
下宿にピアノもなかったので、
練習は駅前のカワイ音楽教室の
ピアノレンタルを利用している状態だったからだ。

家庭教師バイトがない放課後は
退校時間の夜9時まで
ずっとピアノを弾いていた。
毎日毎日グランドで練習できる。
それだけでも夢のように幸せだった。

学校のピアノレッスンの私の担当教員は
藤原歌劇団の伴奏ピアニストだった。
レッスンの門下顔合わせ時には
既習の教材やレパートリーと、師事歴の提出を求められた。
彼女は私の書いたものに目を通し
「この○○さんって、二期会の○○さん?」
と私に問うた。

「そうです」と答えると重ねて
「今も通ってる?」と訊かれた。
その声のトーンからは
発言の意図を測りかねたので
私は正直にこう答えた。

「今も行っていますが…
すみません、私はものを知らないので
率直にお伺いします。
こういう場合、音楽の世界では
あちらを辞めるべきものなのでしょうか?」

先生はしばらく考えてから
「うん、辞めないほうがいいわ。
あなたの将来の可能性のことを考えると
二期会にも縁を繋いでおいたほうがいいから。
人間関係をわざわざ狭めることはないわ」
とおっしゃった。そして

「ピアノのソロだけでなく、
声楽の同級生の伴奏も弾く機会があるなら
積極的にやってみなさい。
発見がいろいろあるから」
とのアドバイスもくださった。

おかげで、
指導教員公認という音楽の世界では稀有な形で
副科にもかかわらず
ピアノのダブルレッスン生活が始まることになった。

奇しくもその二人の師匠は
当時(=新国立劇場開場以前)の二大オペラ団体の
売れっ子伴奏者だった。

そして師匠の助言を実行して
声楽の同級生たちに伴奏を頼まれたら
喜んで引き受けることも行った。

これがのちのち、私の将来を変えていくことになる。

声楽での行き詰まり

声専に入学した当時、
私は真剣に声楽家を目指していた。

世の中には天性の美声の人や
誰に教わるでもなく
本能的に良い発声を知っている人がいるが、
私は残念ながらそのどちらのタイプでもなかった。
その反面、
絶対音感があり、読譜が早く、外国語も強かった。

なので、私の声楽学習では
呼吸法や発声テクニックの習得が課題だった。

努力の甲斐あって、
声専の最初の2年、音楽科と呼ばれる課程では
首席にあたる「優等賞」を獲得し、
卒業式では総代を務めた。
が、これは全教科の総合力が評価された結果で、
声楽実技のみに着目すると
私よりうまい同級生は数名いた。

音大で言えば3-4年にあたる
「研究科オペラコース」に進級後は
モーツァルトのオペラを本格的に学ぶようになり、
個人レッスンでも
オペラアリアを中心に扱うようになると
自分の才能の限界というものを
意識せざるを得なくなった。

その反面、伴奏の依頼は増え続けた。
最初は無償だったが、
そのうちランチをごちそうになったり、
ハンカチなどの小ギフトをいただいたり、
ついにはギャラをお支払いくださる方も出てきた。

副科ピアノの試験時には
見学のギャラリーが出るようになり、
指導教員ではない採点担当の先生方からも
アドバイスがいただけるような状態だった。
ピアノ専攻学生並みの扱いだった。

こういう現実に直面して私は悩んだ。
「進路をピアノに再選択すべきなのだろうか?」

職業とは? 人生とは?

声楽は別に嫌いではなかったし、
年齢的なハンデはピアノに比べて少ない。
才能に恵まれていれば楽しく続けられただろう。

しかし声楽で仕事を得るには
私の才能は平凡だった。
声種面で最も人口の多いソプラノだったから
ライバルも多い。

演奏に対して報酬を得られても
それで1人前に自活できないなら
アマチュアではないかもしれないがプロでもない、
「セミプロ」ということだ。

音楽の仕事が得られず
バイトで食いつなぎながら
あるいは
ものわかりのよい夫を掴まえて主婦をやりながら
たまに回ってくる合唱の仕事を心のよりどころに
「音楽家」を自称して生きる未来はいやだった。

バイトであれ、主婦であれ、音楽であれ
生きていくための糧を得ること=「生計を立てる」ことは、
生命を維持するための活動である。
どんな人にとっても
多大な時間と体力と精神エネルギーを求められることだ。
人生の大きな部分を占めるこの活動は
ある意味、その人の存在を
最も雄弁に、また客観的に物語るものだと言える。

かつて私は鬱で苦しみ
自殺する勇気も持てなかった自分に絶望し
「どうせ死ねない自分にとっては
残りの人生は余生だ。
だったら、自分が心から望むことをして生きよう」
と思ったことで、
再び生きることを始めたのだ。

せっかく自分の心に正直になって
音楽の道を選んだのに
生計のためにバイトをしなければならないのなら、
あのまま弁護士を目指して
趣味でピアノを再開するのと
どう違うというのだろう。
人生の一時期にしかるべき環境下で
音楽専門教育を受けた――
ただそれだけしか違わないではないか。
だったら不安定なバイト生活より
弁護士になっていたほうが
社会的にも経済的にもはるかに良い。

あのとき私は
「自分の魂が本当の望みを生を生きる」ことに
コミットしたのだった。

だったら、声楽よりも
子どものころから慣れ親しみ、
今、既に報酬を得ることもでき始めているピアノに
全振りするのが正しい選択ではないのか…?

何とかするしかない

しかし家にはピアノがない。
在学中は学校で練習できるが、
卒業したらどうなる?

2人の師匠や
藤原歌劇団に近接する環境下で
他の声楽伴奏専門のピアニストたちを見ていると
声楽伴奏という特殊ジャンルは
確かに女性一人が食べていける程度の収入を
音楽で稼げる職種なのだとは理解できた。

しかし家にピアノがない状態で
オペラの稽古伴奏を何本も掛け持つのは
さすがに難しいだろう。

かと言って
ピアノを常時弾ける環境を手に入れるために
実家に帰るのは本末転倒だった。
今の私に来ている伴奏の仕事は
東京で私が開拓した人脈に由来している。
ピアノを手に入れるために大阪に帰っても
肝心の仕事は途切れるだろう。
それでは
「音楽では食べていけない」という父親の信念を
みずから証明するようなものだ。

だが、東京で
グランドピアノを手に入れ
ピアノの置ける住環境を手に入れるためには
どれだけの資金が必要なのだろうか?

インターネットのなかった時代のことで
音楽界に知人も少ない私にとって、
それを調べることは不可能に近かったから
わずかの口コミを頼りに想像するしかなかったが、
音出し可能な賃貸物件でも家賃は6桁、
組み立て式の防音室を設置するのにも
7桁のお金が必要なことは確実だった。
生活費を稼ぎながら、
それだけの資金を貯めるのには
何年かかるだろうか?

とすると…残された道は
「ピアノがないピアノ専攻学生」
そして
「ピアノを持たずにプロを目指すピアニストの卵」

しかしこれはさすがに…非常識にもほどがある。


一般的なピアノ専攻学生は
1日に5-6時間は練習をするものだ。
プロになるということは
そういう人々と張り合って
選ばれなければならないのだ。
ピアノも持たずに過酷な生存競争を
どうやって勝ち抜くというのか――

だが私はどうしても
自分が本当に望む人生を生きたかった。

在学中は学校で、卒業後も東京にいる限りは
スタジオレンタルができる。

それは茨の道かもしれないが、
お金のため、安定のため、社会的信用のため、名誉のため
好きでもないことで人生を消耗するのは
もう二度としたくなかった。

研究科オペラコースを1年履修した後、
私は2年に進学せず、
ピアノコースへの転科願を出した。

ショパンの《バラード第1番》を弾いた
学年末の副科ピアノの試験が
転科試験に相当という扱いになり、
私は新年度からピアノ専攻に変わった。