駆け出し時代
スパルタ式伴奏者養成
ピアノ専攻に転科してからは
ますます伴奏の仕事が増えていった。
副科から主科になったことで
学校でのピアノの指導教員の姿勢も
スパルタ式になった。
音楽学校は当時3学期制だったので
年3回実技試験があった。
研究科2年間、6回の試験では
①バッハ平均律
②ショパンエチュード
③近現代
④ベートーヴェンソナタ
⑤スカルラッティ
⑥自由曲(修了試験)
と、おおまかな課題が決まっていた。
通常の主科のレッスンでは
学期の初めに次の試験のための曲決めを行い、
学期の間中はその曲を中心に
レッスンを行うというパターンだが、
私の指導教員はまったく教育方針だった。
「研究科を修了したら
伴奏で食べていきたいんでしょ?
だったら伴奏のレパートリーを増やしなさい。
都内で開催されるオペラ公演のチラシを
半年ほどチェックしていれば、
よく上演される演目なんて
10か15ぐらいしかないとわかるから
学校を出るまでにそれらの中から
できるだけたくさんの作品の
譜読みと意味調べを済ませない。
ソロの勉強なんてしてる場合じゃないのよ。
ソロなんてお金にならないんだから」
ピアノの指導教員としては
とんでもない「暴言」だが、
彼女は当時、
多い時でオペラの稽古伴奏7本を抱えるほどの
超・売れっ子だったから
この言葉には
有無を言わせぬ迫力と説得力があった。
私は内心
「ソロもちゃんと弾きたいのだけど…」
「試験で変な点を取るのはいやなだな」
と思ったが、圧に負けて言い出せなかった。
実際、彼女は
ソロの曲をレッスンに持って行っても
あまりちゃんと見てくれなかった。
試験の課題曲を決めてもらったのが
試験1週間前だった、ということさえあった。
その代わり伴奏の曲は
微に入り細に入り指導してくれた。
彼女の譜めくり兼カバン持ちで
オペラの現場に
連れて行ってもらうこともあった。
ときには多忙すぎる彼女が
引き受けられない仕事を
私に振ってくれることもあった。
もう一人の師との出会い
この個人レッスンとは別に
クラス授業形式での
「伴奏法」「伴奏実習」「鍵盤和声」
という講義もあった。
伴奏法では歌曲の伴奏のほか、
コードネーム付き一段譜の伴奏も教わった。
伴奏実習はオペラ専攻と合同授業で
指揮者・演出家付きのオペラの稽古の
伴奏を担当する。
鍵盤和声の時間は
バロック時代の伴奏に必要な
数字付き低音の読んで弾くことや
スコアリーディング(指揮伴奏)の練習もした。
伴奏法と伴奏実習の授業担当の教員は
ヨーロッパの歌劇場で
コレペティトゥーアを務めた
帰国後間もない気鋭の若手ピアニストだった。
彼からは、
個人レッスンの指導教員や
ダブルレッスンの師匠とは異なる切り口で
声楽伴奏へのアプローチを教えてもらった。
「声楽伴奏は、言葉を伴っていて
演奏者は生身の身体が楽器だ。
だから器楽伴奏とはちがって
割り切れない、不合理なこともたくさんある。
そうした歌手の生理的な状態、
歌詞の言語の特徴も理解して
音楽的に自然に聞こえるように合わせるのが
声楽伴奏者に必要な『合わせる』能力だ。
だが、これは残念ながら
教えてできるものではないんだ。
まして、合わせの回数を増やせば
できるようになるというものでもない。
この能力が備わっている伴奏者なら、
合わせ1回で本番が弾けるはず。
だから…伴奏法の授業を持っている
僕が言うのもおかしな話だが、
ある意味、伴奏法というのは
教えられるものじゃないんだ」
これはあるとき
彼が私に語った言葉である。
彼に言わせれば、
私のピアノのテクニックはひどいものだが
この「合わせる能力」に関しては
優れたものがあったらしい。
指導教員がソロの面倒を見てくれなかった分、
彼は私の「ひどいテクニック」を何とかしようと
奏法改善指導も試みてくれた。
彼としてはこうした視点からの
ソロの指導は初めてだったようで
当時邦訳版が出たばかりの
コルトーのメソッド教本を使って
1年半ほど、二人三脚で
ピアニズムを徹底的に改善した。
私にとっては
中学時代に先生を変わったときについで
二度目の奏法改善の機会となった。
こうしたこともあって
音楽学校修了後も
私は彼のもとに個人レッスンに通うことになる。
コミットメント
当時の私にはまだ鬱の残滓があり、
精神的に安定したとは言い難い状態だった。
伴奏の依頼も増えてきていたし、
音楽学校の先輩から
進学塾併設のピアノ教室の講師の仕事も
紹介してもらっていた。
音楽関係の仕事は増えつつあったものの
相変わらずピアノは下宿にない状態。
このままで数年後には本当に
師匠たちのように伴奏者として自立できるのか
不安でたまらなくなり、
涙が止まらなくなる日もよくあった。
そんな気持ちから逃れるように
私は心理学や精神世界系の本を
多読するようになる。
今でこそ珍しい話ではなくなったが
「自分の現実は自分が創造している」
「思考は現実化する」
「目の前の事象は自分の心が投影されたもの」
という考え方に触れたのもその流れの中でだった。
幼児期から音楽が大好きなのに、親の応援がないこと。
しかるべき年齢までに十分な音楽教育を受けられなかったこと。
ピアノ専攻なのにピアノがない家に住んでいること。
こういう不遇な状態も
すべて自分の心や思考が創り出したものだと
認めることは腹立たしかったし、悔しかった。
しかし、自分が創ったものだからこそ
自分が変えられるのだと気付いたとき、
すべて自分が望んで引き起こした事態として
認めようと思った。
では、自分の中の何をどう書き換えれば
この現状を好転させられるのだろうか――
そんなことを考えている日々の中で、
ある日突然、私に中に
一つの考えが閃いた。
「音楽家になれるかどうか、と
考えていること自体がすでにおかしい。
なれる/なれない、ではなくて
なるか/ならないかが
問題の焦点なのではないか?」
それまで私は心の底で
「お前は音楽家になれる」
と誰かに言ってほしいと思っていたことに
気づいたのだった。
これ、すなわち
他人に下駄を預けている状態。
これは違うよね。
仮に「なれる」と言ってくれる人が
現れたとしても
神様以外なれるかどうかなんて
わからないわけだし。
自分が「なる」と決めるかどうかが
「そうなった」未来を引き寄せるんじゃないの?
これに気づいたとき私は
「自分は音楽家になる」と決めた。
音楽家になることに
やっと本気でコミットメントしたのである。
非音楽系の仕事を切る
ピアノ専攻に転科した当時の私はまだ
非音楽系のバイトを抱えていた。
進研ゼミと、Z会国立難関大コースの国語の添削指導、
そして相場より時給の高い富裕層の家庭教師である。
しかし生活費やレッスン代のことを考えると
家庭教師や添削から手を引くことは
できなかった。
そんなある日、指導教員から詰め寄られた。
「いつまで家庭教師とかやってるつもり?
そりゃ教育系の仕事のほうが
収入にはなるだろうけど
バイトのほうが実入りがいいからと言って
いつまでも続けていると
結局、切れなくなって
音楽の仕事が『バイト』になっちゃうわよ。
そんな人、これまで何人も見てきたから。
特にあなたみたいに高学歴の人は危ないのよ」
さらに、ちょうど同じ時期に
添削の仕事が繁忙期のため
伴奏法の授業をさぼって
図書室で添削をしていたら、
伴奏法の先生と鉢合わせしてしまい、
「ピアノと添削とどっちが大事なんだ!」
と、大目玉を食らったという事件も重なった。
家庭教師と添削を辞めるのは
収入のことを考えると怖かったが、
先生方のおっしゃることは
確かに一理はあると感じたので
思い切ってこれらの仕事を切る決断をした。
かと言って、
ピアノ指導と伴奏の仕事だけでは
やっていけなかったので、
私はアルバイト雑誌などを見て
ラウンジプレーヤーの仕事を探すことにした。
私は音楽家になるのだから
お金の不足は音楽の仕事で補おう、
と決めたのである。
クラシック以外のジャンルを弾くことに
抵抗がないわけではなかったが、
とにかく「音楽の仕事」でありさえすれば
ジャンルは問うな、と自分に言い聞かせた。
とにかく家庭教師と添削を辞めた不足分を
早急に補う必要があった。
音楽でお金を稼げるなら
自分の美意識にこだわってはいられなかった。
幸い、本気のコミットのおかげか
音楽学校の同級生の紹介で
会員制バーラウンジでの
ピアノ生演奏の仕事が
すぐに見つかった。
一部上場やマスコミ、
文壇や舞台人が利用する
客筋の良い店だったので
酔客に絡まれたり
理不尽なリクエストを出されたりするような
不快な思いをしたことはついぞなかった。
ついにピアノを手に入れる!
ピアノ専攻ともなると
譜読みしなければならない曲は
副科時代より圧倒的に多くなった。
いくら読譜が早いとはいえ、
さすがに私も
厳しい状態に追い込まれ始めた。
にもかかわらず、
相変わらず家にピアノはなく、
学校で練習しなければならない状態。
折よくヤマハが
初代クラビノーバを発売したので、
すぐに購入したが、
テクニックの向上のためには
電子ピアノでは限界があることは否めない。
何より、休日にわざわざ学校に行って
練習をするのは時間のロスが大きい。
私は以前にもまして心から
ピアノのない不自由さを実感するようになった。
そんなある日、研究科修了まで
あと半年となった夏のある日、
指導教員から突如、電話が入った。
「知人にグランドピアノを
15万で譲りたい人がいるのだけど買う?」
機種はヤマハのG3。
音大生が購入するグランドの標準機種の一つである。
この価格は破格であり、
これは2度とないチャンスだということはわかる。
問題は置き場所だ。
今の住まいは軽量鉄骨木造の賃貸物件。
グランドを置けるわけはない。
「1週間待ってもらえますか?
グランドを置ける物件が見つかって、
私に払える家賃であれば、
転居して購入します」
そう返事をして、
私はただちに部屋探しを始めた。
さすがに東京住まいも9年目。
西武池袋線の「江古田」駅には
音大生用賃貸物件がある、
という情報は知っていたから、
江古田の不動産屋を
しらみつぶしであたった。
季節はちょうど8月の初旬。
数件の不動産屋で異口同音に
「音大生物件は
春先に出払っていて今はほとんどない」
と言われた。
しかもこちらの予算は低価格。
「そもそも予算5万じゃぁ、厳しいね。
もう少し高い物件ならあるけど」とも。
真夏のさなかに1日中歩き回って
疲労も限界、
やはり無理だったか…とあきらめかけたとき、
路地の角にぼろい店構えの不動産屋が目に入った。
正直、あまり入りたくない雰囲気だったが、
この際、江古田中の不動産屋は
全部回ったという事実は作りたいと思って
店に入った。
中には、体格の良いいなせな中年男性が1人、
釣り具の手入れをしていた。
グランドピアノの音出し可、予算5万円以内
という条件を告げると、
意外なことに
彼は2つの物件を提示してきた。
なんと、両方とも
グランドが置けるにもかかわらず
風呂なしというレア物件だった。
駅からはどちらも8分程度。
片方は鉄筋で6畳+3畳+キッチン3畳、5万3千円。
もう一方は木造で6畳+キッチン2畳、4万八千円。
私は木造物件を選ぼうかと思ったが、
同行してくれていた当時の彼が
「グランドを置いたら、
暮らすところがなくなっちゃうよ。
それは精神的にキツくなるから」
と反対。
それまで家賃3万8千円のところに
住んでいた身としては
5万3千円が払えるか不安でもあり
鉄骨の12畳という広さは
分不相応なぜいたくにも感じられたが、
元カレの強い説得で、
鉄筋物件に決定した。
帰宅後、無事物件が見つかったことを
指導教員に報告、
売主様にも伝えていただいた。
お盆明けに引っ越しを決行、
ピアノ代と引っ越し代とピアノ配送費用で
貯金がすべて吹っ飛んだ。
しかし小さいころからの夢だった
グランドピアノが、
ついに自分のものとなったのだ。
これからは思う存分、ピアノを弾ける。
音楽学校を出た後でも
毎日ピアノを弾ける環境が確保できたのだ。
この奇跡のような展開は、
「音楽家としてやっていきなさい」
という天からの啓示のようにも思えた。
