駆け出し時代

フリーランスの音楽家の悩み

研究科修了で、私は名実ともに
フリーランスのピアニストという立場になった。
この頃の私の収入源は、
伴奏とソロ演奏と指導の3本立てが
ほぼ均等という状況だった。

伴奏は声楽のレッスンやコンサート、
オーディション、コンクールなどが中心で、
《カルメン》、《ラ・ボエーム》、
《椿姫》などオペラの稽古ピアニストや
国技館5000人の第九、
鶴見大学女声合唱団などの合唱の仕事、
チェロやフルートの伴奏も行っていた。

ソロはもっぱらポピュラー系で、
ラウンジやブライダル(主に披露宴)での演奏。
ピアノだけでなくシンセサイザーも扱った。
このときに電子楽器の扱いや配線に慣れたことが、
後々、さまざまな仕事の現場で役に立つことになった。

指導は、ピアノ教室の講師と、
個人宅の出張レッスンを合わせて
10~20人程度、
更に、ブライダル所属事務所の
奏者養成コースの指導で10人程度、
生徒さんを抱えていた。

教える仕事は好きで得意だっだし、
ポピュラー系の仕事は
音楽が社会の役に立っていることを
実感できるのでやりがいを感じていたが、
いつかは先生方のように、
伴奏一本で生活できるようになりたいと願っていた。
そのためには、もっとピアノのスキルを上げ、
レパートリーを増やし、
声楽家と共演する経験を積まなければならない。

この頃の私の悩みの種は、
音楽の仕事とはいえ、
生活費を稼ぐことに追われて
自分の成長に必要な研鑽に
充分に注力できないことであった。

しかし、この苦労のおかげで、
短時間で最大の効果があがるよう
練習方法を工夫したり、
生活全体にわたって
タイム・マネージメントをしっかり行ったり、
来た仕事を音楽の仕事だからと
何でも喜んで何でも引き受けず、
単価の高い仕事を選んで受けることを覚えていった。

「運も実力」という言葉の意味を思い知る

ある日、
レッスン伴奏のお仕事をくださっていた
声楽の先生から、
昭和音大附属音楽・バレエ教室の講師の
公募があることを知らされ、
試験を受けることを勧められた。
併設校の出身とはいえ、
音大卒ではない私が受かるわけがないと思ったのだが、
幸い合格となり、ピアノ講師として採用が決まった。
採用試験ではドビュッシーの《水の反映》を弾いた。
あとから知ったことだが、
この時期は、たまたま業務拡張のため大量採用が必要で、
内部推薦以外にも広く公募が実施されたようである。
ここでは、ピアノ講師として採用されたのだが、
ポピュラー演奏の経験を買われて、
ミュージカルの伴奏も任されることとなった。

さらに数年後、
母校・昭和音楽芸術学院
(「東京声専音楽学校」から校名改称)に
新たにバレエコースが設置されることになり、
バレエピアニストの公募が発表された。
その頃はちょうど伴奏を発注してくれていた
同世代の歌手たちがそろって留学に旅立ち始め、
仕事が減少気味だったので、
ダメ元で応募してみたところ、なぜか合格。
バレエのことをほとんど知らない私が、
バレエピアニストとして働くことになった。

バレエコースは、
「日本にいながら
欧米のバレエ学校と同じ水準の教育を」
という理念のもと、
英国ロイヤル・バレエ団出身の
バレエ教師が常勤として着任していた。
私が合格した理由の一つには、
どうやら私の英語力への期待があったようだった。

幸いなことに、
バレエの前知識が全くない私を、
英国人教師は歓迎してくれた。
むしろ、バレエという芸術の本質、
音楽と踊りの関係について、
一から教えることができるのを喜んでいた。
私がオペラ伴奏の経験者であったことも、
信用度につながっていた。
欧米のオペラハウスでは、
バレエとオペラは両輪であり、
リハーサルの進め方が似通っていたからだ。
英国人教師のおかげで、
私は2-3カ月のうちに
すっかりバレエ伴奏に慣れることができた。

公募によって仕事を得たこの二つの経験から、
仕事を得るためには、
演奏力をあげるのはもちろん、
人の縁や、
ものごとのタイミングのめぐり合わせも
大事だということを学んだ。
また、妙な先入観にとらわれて消極的になり、
自分からチャレンジの機会を放棄することが、
実にもったいないということも思い知った。

これまでの経験から、人生は、
紆余曲折はあるにせよ、最終的には
自分の心の深い部分で描いている
イメージの通りになるものだということは
実感していたが、
人の縁やタイミングの波に上手に乗ることで、
その実現スピードが上がるらしいということを
学んだのである。
理想の人生を創り出すために、
自分の中の弱さや甘い部分を
どうコントロールするかということに加えて、
運の波を読み、波の高低を上手に乗りこなすには
どうすればいいかということも、
これを機に真剣に研究するようになった。

バレエ伴奏に携わるようになって3年目の秋、
昭和音楽大学にもバレエコースが新設され、
ピアニストの公募が実施されることになった。
今回は、大学講師(伴奏講師)という好待遇だったため、
海外の音楽院出身者や、
コンクール入賞歴のある人、
有名音大出身者らの応募が殺到した。
音大を出ておらず留学経験もない私にとっては
厳しい戦いだったが、
バレエ伴奏経験を前面にアピールすることで、
採用を勝ち取ることに成功した。
この時の課題曲は
《眠れる森の美女》の〈ローズ・アダージオ〉、
これにフル・クラスの伴奏(自由曲)と初見視奏、
小論文と面接(日本語と英語)であった。

音楽家として生きる

次のステージへ

特に売り込みをかけたわけでもなかったが、
次第にバレエ伴奏の仕事が増えていった。

駆け出しの頃には遥か遠くに見えた
都内の有名バレエ団や
来日講師の講習会のお仕事も
数年のうちに
お声掛けいただけるようになった。

私はもともとバレエとは
全く縁のないところにいたおかげで、
一歩ズームを引いた位置から
「バレエ伴奏とは何か」ということを
冷静に分析することができた。
それをもとに、
バレエ伴奏を弾くためには
何が必要で何が邪魔なのかを見極め、
短所をカバーし、長所を売り込むよう、
自分の伴奏スタイルを作りげた。
私が今日まで、バレエ伴奏の分野で
内外の超一流舞踊家との協働の機会をたくさん得、
しかも長期間安定的に売れてきたのは
このように意識的なキャリア戦略を
一貫してとり続けてきた結果だと思う。

バレエが順調だった半面、
歌の伴奏には行き詰まりを感じ始めていた。

この頃、
かつて歌の伴奏を発注してくれていた歌手たちが、
留学から帰国し始めていた。
成長した彼らの要求に、
これまでの自分の音楽づくりでは
充分に応えられないと感じることが
増えていった。
バレエと違い、
歌の伴奏に対しては思いが強い分、
仕事に対しても自分に対しても、
客観視できないところがあり、
戦略的になれなかった。
よかれと思ってする努力が空回りすることが増え、
どうしたらよいかわからぬまま、
このままではだめだという焦りだけが募っていった。

そんな時期に出会った一人の歌手が、
次のステップへの途を開いてくれることになった。

彼は藝大出身。
日本音楽コンクール入選、
ヴェルディの声国際声楽コンクール入選など
内外で数々の輝かしい賞歴を持っていた。
足掛け7年にわたる
イタリア留学と欧州での演奏活動を
切り上げて帰国し、
コンクールの伴奏者を探していたのだった。
私がよく伴奏を弾いていた歌手が、
留学時代に彼と同門だった関係で、
私を彼に引き合わせたのだった。

初対面で彼は私の伴奏について
「歌にただ合っているだけで、
主張に乏しい。
まるで学生の伴奏で、
それでは充分なサポートとは言えない」
「狭い舞台上で合うか合わないかは
大した問題ではない。
劇場の客席で聴いた時に
合うかどうかだ」
と言い切った。

そこまで言っておきながら、
彼がなぜ私を使う気になったのかは
今もって謎だが、
彼の伴奏を経験することで、
歌や声に対する私の考え方は一変した。
ひとまず藤沢オペラコンクールで、
彼に入選をもたらすことはできた。

結婚を機に声楽伴奏から離れる

私生活でも彼は私のパートナーとなったが、
この結婚は、
双方の音楽業界の中の立場を考えると
「格差婚」であった。
実際、彼はなかなか
私の伴奏を認めてはくれなかった。

受けて来た音楽教育の格差から生じる
夫婦間の音楽観の相違。
音楽以外の面では
意気投合していた二人であったが
音楽をめぐって衝突することは
しょっちゅうだった。

バレエで売れてきていたことも手伝って、
私はついに怒りに任せて、
歌の伴奏を一切弾かないと宣言してしまった。

その後二年ほどは、
声楽伴奏から離れて
バレエ伴奏に専念していたが、
バレエピアニストとして
売れれば売れるほど、
自分の中の釈然としない部分が
大きくなっていった。
 
音楽学校時代から
一生懸命勉強してきた声楽伴奏。
私の夢はコレペティトゥアになることで、
バレエピアニストではなかったはず。

確かに、売れているのは気分が良い。
世の中の役に立っている手応えもある。
でも、それは私の望んだ未来とは違う。
自分はここで何をしているのだろうか。
このままの延長の人生を選んだとしら
死ぬときに私は後悔するのではないだろうか。

そんな引き裂かれた思いを抱えながら、
表面上は忙しく仕事をこなしていた。

声楽とバレエの二刀流伴奏者

ところがある日、
バレエ公演本番での
私の伴奏を聞いた彼が、
「うまくなったね」と言って
歌の仕事を紹介してくれたことで、
私は声楽伴奏の世界へ
再び舞い戻ることとなった。

結局、私に欠けていたものは
伴奏者としてのスキルでも
演奏能力でもなかった。

私に欠けていたもの―
それは、
表現者としての強さ、責任、
あるいは自己確信とでもいうべきもの。
 
彼に言わせると
今までの私は
歌手にくっついていくだけで
歌手と互角の表現者である覚悟が
足りなかったということだったのである。

それが、
イギリス人バレエ教師の伴奏という、
自分の頭で一から考えて
創意工夫をしなければならない状況に
放り込まれていたことで
一皮むけたのだ、と。

確かに、言われてみれば
歌の伴奏は師匠に憧れて
何とかしてその技を盗もうと
必死でレッスンに通っていたが、
バレエ伴奏は誰にも教わらなかった。

正確に言うならば、
いきなりバレエの世界に放り込まれた時、
バレエピアニストの友人に
3回ほどレッスンをしてもらったが、
即興中心の彼女の伴奏スタイルに
全くついていけず、
以後、誰にも頼らず
自力でやることにしたのだった。

目の前にいるダンサーたちが
教師の指導を汲み取って
いっそう良く踊れるには
どうやって音を入れていけばよいのか―
現場で頭はいつもフル回転だった。
 
その反面、声楽伴奏と違って
バレエには何の思い入れもなかったから
「私のやり方でダメだと言うなら
 いつでもクビにしてくれ」
という居直ったような気持ちもあった。
 
誰かに、歌の伴奏の場合、
こういう気持ちの強さは欠けていた。
優れた師に恵まれていたことが
逆に主体的な姿勢を阻害していたことに
今になってやっと気づいた。

彼が紹介してくれたのは
「オペラサロン・トナカイ」
というレストランの伴奏だった。
ここはオペラ好きの実業家が、
若手声楽家育成のために
私財を投じて作ったお店で、
毎晩ディナー付きコンサートが開かれていた。

ここでの数年間で、
百名以上の優秀な歌手と
現場での実践経験を積むことができたのは、
声楽伴奏者として大きな財産になっている。
トナカイのオーナーは、
若手演奏家の将来性を見抜く目利きで、
当時のトナカイに在籍していた
アーティストたちの多くが、
今は我が国と世界の第一線で活躍している。

歴史と文化の街・台東区に拠点を移す

私は歴史や文学が好きだった。

ピアノの関係で、
音出し可の物件が豊富な江古田に
長らく住み続けてきたのだが、
生まれ育った関西のように
名所旧跡のある地域に住みたくなってきた。

そこで、浅草や谷根千、上野公園が
徒歩圏にある地に居を移す決心をした。

家を買うということは、
社会人としての信用と実績を
評価されることでもある。
最大手都市銀行の
住宅ローン審査を通過したことは、
音楽家としての自分が
一般社会から認められた喜びと自信を
私にもたらした。。

転居をきっかけに、
私はコンサート・プロデュースの仕事も始めた。

音大を出たわけでもない自分が、
子供の頃からの夢であった音楽家になり、
演奏1本で自立して、
東京の地に居を構えることができた。
その感謝の表明として、
ささやかでも文化の創造と発信を行い、
地域に貢献していこうと思ったのだ。

また、若い世代のために、
音楽家と仕事(経済的自立)、
音楽による社会貢献という問題を
もっと突き詰めて考える場所が
欲しかったこともある。

ARTS & HEARTS PROJECTと題された
この声楽コンサートシリーズは、
2020年2月に第90回を迎え、現在も回を重ねている。

演奏会場には、
毎回国連食糧計画(WFP)のための募金箱を設置し、
募金総額は100万円を突破している。

演奏現場での経験を研究者として形にする

演奏のキャリアは
念じて引き寄せた面が強いが、
研究者としてのキャリアは
偶然に後押しされてきた。

研究者としてスタートするきっかけは、
昭和音大の講師試験で書いた論文だった。
採用時に、経営トップ直々に
「演奏だけでなく、
研究者として論文も書くように」
と言われたのだ。

そこでとりあえず3本ほど、
バレエ伴奏に関する論文を書いた。

しかし、研究が深まるにつれ、
バレエ音楽というものが、
学問上のジャンルが
複数重なったところに位置する、
実に扱いにくい研究対象であることが見えてきた。

とても自分の手に負えない…と思い、
それ以上深入りすることは避けた。

それから十年以上の月日が流れた。

ある日、バレエピアニストの友人から
バレエ伴奏について研究している
藝大の大学院生を紹介された。

彼女との会話から、
藝大では、
バレエやバレエ音楽を研究することが
可能だということがわかった。

自分の力の無さから
長い間中断してきた研究だが、
藝大という恵まれた環境下なら
これをきちんと結実させることが
できるかもしれない。

そう思ったら
居てもたってもいられず、
大学院を受験してみた。
思い立ってから試験まで2カ月しかなく、
仕事も繁忙期だったが、
合格することができた。

メインの研究テーマは、
19世紀バレエと音楽。

他にも日本歌曲、
特に戦前の台湾における
唱歌や童謡の受容についても
研究を行っている。

2018年3月に修士課程修了。
修士論文『七月王政期バレエにおける
台本・音楽・振付の相互作用
――《ジゼル》における
「踊り」の両義性とその具現――』

修了時には総代を務め
成績優秀者に与えられる
「大学院アカンサス賞」をいただくことができた。

バレエの中心地がフランスから
19世紀後半にはロシアへと移ったことから
博士課程ではロシア・バレエを研究テーマに取り上げた。

2023年3月に後期博士課程を修了。
博士学位論文『マリウス・プティパのインペリアル・スタイル
ーーツァーリズム化したロマンティック・バレエーー』により、
学術博士の称号を授与される。

ロシアピアニズムとの出会い

10歳ごろに最初のピアノの先生に疑問を持って以来、
ピアノのテクニックに関しては
一貫して悩み、研究も続けてきた。

バレエの世界には、
「ダンス・アカデミック」と呼ばれる
万国共通の基本が存在する。

しかし、ピアノの世界は、
指導者により言うことがまちまち。

「うまい」と評される人の多くは、
結局のところ、
骨格的に恵まれた人、
指が回る人だということが謎だった。

ピアノの構造や、
物理的な音の伝わり方、
解剖学的な観点が欠如したところで
奏法やトレーニングが語られるのも、
理解できなかった。

こうした疑問は、
大野眞嗣先生と出会い、
ロシアピアニズムを知ったことで、
全て解決した。
1800年代に端を発し、
ロシアで脈々と継承され、
アルゲリッチをはじめとする
世界第一級のピアニストが採用する奏法と音色。
世界標準の本物のピアノを学びたいという
子供の頃の願いが、ついに叶えられたのだ。

奏法を変えたことの効果は劇的で、
以前は苦労して練習しても
なかなかうまくいかなかったパッセージが、
嘘のようにやすやすと弾けるようになった。
音色の多彩さも増した。
この変化は、
特にバレエの仕事でご一緒する
ロシア人の先生方に好評である。

おわりに

最後に正直に告白するのだが、
私のような経歴の人間が
音楽をさせていただいていることに、
ずっと一抹のうしろめたさを感じて続けてきた。

しかし、そのうしろめたさを克服するために、
必死で努力を続けてきたのも事実である。

おそらく人生の半分は
通過したと思える最近になってやっと、
ここまで音楽で仕事をして
暮らしてきたということは、
自分のことを
音楽家として認めてよいのだろうと
思えるようになってきた。

これまでは、
自分が成長することしか考えてこなかったが、
これからは、
自分が学んだことを、
人と分かち合う段階に
さしかかっているのだと感じている。

私が音楽からもらった生きる力、
夢にむかって進むエネルギーを
今度は《高島ピアノ塾》を通じて、
多くのみなさんに手渡していきたい。

音楽のある人生は
素晴らしい人生だということ―
音楽は人間が一生を賭けるに足る
立派な職業であるということ―
自分の人生を作っているのは
自分自身だということ―
一見無理と思える状況でも、
意志の力で道を切り開くことができるということ―
生きている限り、
夢をあきらめてはいけないということ-

そんなことを、
音楽を通じて
次の世代へ伝えていきたいと願っている。