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東大不合格から自暴自棄に

大学受験の結果、東大は不合格。早稲田と中央大には合格した。
東大不合格を告げた時、
父は「お前は本当に頭が悪いやつだ。馬鹿だ」と吐き捨てるように言った。
私は「そんなに東大に行きたきゃ、お前が行け」と言い返した。
父に激しい憎悪を感じたが、
一浪して捲土重来を期し、父を見返す気力はもう残っていなかった。
人間は、魂の底からの情熱を感じないものに対して、
何年も頑張り続けることなどできない。
父から逃げるようにして、私はバッグ一つで上京した。

早稲田のキャンパスは、巨大なごった煮の大鍋のような、にぎやかな活気に満ちていた。
1学年わずか180人の学校から、
1学年1万人、法学部だけでも1200人という環境に突如投げ込まれ、私は困惑した。
1限から5限まで大学にいても、知り合いに一人も会わないという日もあった。

不運も重なった。
早稲田には司法試験受験サークルがあり、私はそこに所属することにした。
先輩一人に下級生数人でゼミを組んで、基本書と呼ばれる法律書を勉強するのだが、
私が割り当てられたゼミは、先輩がゼミ長の役目をせず、
一度もゼミが開かれないまま消滅した。
混声合唱部にも所属したが、
部で定めた練習時間が全て必修授業と重なったため、退部せざるを得なくなった。

大都会の孤独と、自分はダメ人間なのだという劣等感から、
私は下宿に引きこもって授業に出なくなり、
お酒と精神安定剤を常用するようになった。
朝からウィスキーを、瓶から直接ラッパ飲みして精神安定剤を流し込む生活。

同じく上京組の高校時代の親友は、私が自殺するのではないかと心配して、
毎日、安否確認に立ち寄ってくれた。
カーテンを閉め、昼間も暗い部屋の中、
アルコールと薬で朦朧とした頭で、
私はひたすら自分の生きる意味について考えた。
実際、何度も死のうとしたが、死ねなかった。
死にたいと言いながら死ねない自分をますます軽蔑し、憎んだ。

どん底からの脱出

半年ほどそういう時間が流れたある日、たまたまテレビをつけると、
中村紘子が講師を務める「ピアノとともに」という連続番組が放映されていた。
《謝肉祭》、《メフィストワルツ第1番》など、ロマン派の難曲を取り上げ、
音大生やセミプロを対象とする公開レッスン番組だった。
私はテレビ画面から目を離すことができなかった。
これこそが、自分が本当にやりたかったことだったのだと思った。
涙が止まらなかった。

死にたいくらい絶望していたのは、大学に落ちたからではなくて、
自分に心に嘘をついてまで頑張ってきたのに、
それが報われなかった無力感から来ているのだと悟った。

問題の根本は、努力が報われなかったことではなく、
そもそも自分を偽ってきたことにあったのだ。
ピアノのない下宿で、一人でわんわん泣きながら、
もう自分に嘘をつくのをやめよう、と心に誓った。
この日から私は少しずつ生きる意欲を取り戻していった。

音楽を自分の手に取り戻す第一歩として、
大学のピアノサークル「ショパンの会」に入会を申し込んだ。
ここに所属したことで、
東京にはピアノのレンタルスタジオというものが存在することを知った。
レンタルで久しぶりに鍵盤に触れた時、
自分の人生に再び音楽が戻ってきたことを心の底から感謝した。
もう二度と音楽から離れて生きることはするまい。
No Music, No Life だ!!
同時に、
これまで家にピアノがありいつでも弾けることが当然だと思っていた自分を恥じた。

次に、私は演奏会を聴きに出かけるようになった。
公演プログラムには、
合唱団やオーケストラのメンバー募集のチラシが多数挟み込まれている。
その中の一つ、「新星日響合唱団」という混声合唱団に、私は参加を決めた。
下宿にピアノがない不自由さがつくづく身に沁みていたので、
楽器が自分の一部である歌をやってみようと思ったのだ。

この合唱団は、
プロ・オーケストラ新星日響(後年、東フィルと合併)との共演のために設立された。
演奏対価が支払われないという点ではアマチュアだったが、
要求される水準はプロ並みだった。
長年求めてきた本物の芸術がここにあった。
私は合唱団の活動に夢中になった。
もっとうまくなるため、声楽のレッスンにも通うようになった。

合唱団には、ときどき藝大の声楽専攻の学生たちが遊びに来ていた。
大学生どうしということで、彼らとはすぐに仲良くなった。
私が声楽を習い始めたことを聞くと、
彼らは助言をくれたり、オペラの重唱の仲間に誘ってくれた。
その中に、中央大学法学部を卒業してから藝大に入り直したという学生がいた。
「そんな生き方があるなんて!」
目からうろこだった。
自分も同じようにすれば、もう一度人生を選び直すことができるかもしれない。
大学の同級生が就職か大学院進学かを悩み始める時期に、私は第三の道を模索し始めた。

音楽の世界へ

ピアノのない下宿、受験指導のできる先生探し、レッスン代、入学後の学費…
問題は山積みだった。
頭を使うしかない。
まず、ピアノ専攻は諦め、声楽での受験を決断した。
レンタルピアノしか使えない状況でも、副科ピアノの水準ならなんとかなりそうだった。

次に志望校の選定。これには、藝大生たちによる旬の情報が大いに役立った。
藝大の次に学費の安い学校として、
昭和音大併設の専門学校「東京声専音楽学校」の存在を教えてもらった。
藝大には講習会がないので、
ひとまず私大の講習会に参加しろとのアドバイスももらった。
藝大と兼任している先生が多いと言われ、東京音大の春期講習会に参加してみた。
まだ父に受験を打ち明けていなかったので、
もろもろの費用は自分で稼がなければならなかったが、
家庭教師と添削指導を4件掛け持ちして捻出した。

大学4年の夏に帰省した際に、卒業後について父に話した。
「就職も進学もしません。弁護士にもなりません。
音大にもう一度入り直すことにしました。
娘は死んだものと思って葬式代の代わりに学費を出してください」
お願いでも交渉でもなく、一方的な宣言だった。
音楽をやりたい。自分の人生を音楽家として生きたい。
この明確な意志こそが、高校時代の私には欠けていたものだった。
「…わかった。学費だけは出してやる」
奇跡が起きた。気迫が父を動かしたのだと思う。

12月に入り、早稲田では学年末試験の詳しい時間割が発表になった。
ある必修科目の試験日が土曜日で、センター試験の日と重なっていた。
卒業を取るか、藝大受験を取るか…私は悩んだ。
藝大に受かれば、早稲田は中退すればよい。
しかし、落ちた時は、
必修単位を残して早稲田に留年したまま、藝大再受験ということになる。
音楽に100%専念できない中途半端な状態を、これ以上継続することは辛かった。
悩んだ末、私は一つのことをきちんと完結させることを優先することにした。
3月、私は早稲田の卒業証書を手に、東京声専音楽学校の門を叩いた。

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