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水を得た魚

東京声専音楽学校(平成元年に新百合ヶ丘への移転に伴い「昭和音楽芸術学院」と改称)は、
往年の名歌手・下八川圭祐が声楽教育のために設立した由緒ある学校だった。
歴史的には昭和音大の母体でもあり、同じ校舎の中に、藤原歌劇団が同居していた。
声楽を学ぶには実に恵まれた環境の上、少人数制でカリキュラムは昭和音大と同じ。
にもかかわらず、学費は私立音大の半額程度であった。
私は、まず2年間の課程である「音楽科声楽コース」に入学した。

学校に入学したことで、練習室のピアノを存分に使えるようになった。
時間と費用を気にせずに好きなだけピアノが弾けるのが嬉しく、
暇さえあればピアノばかり弾いていた。
おかげで、すぐに高校時代の感覚を取り戻すことができた。
試験で私が弾くときは、副科にもかかわらず、観客席が満席になった。
年3回の試験は、ピアノ専攻の学生より高得点で、
自分の先生以外のピアノの先生方からも、
さまざまなアドバイスや励ましをいただくのが通例だった、

副科ピアノの先生は、藤原歌劇団や東京室内歌劇場で活躍する伴奏ピアニストだった。
この先生は、声楽家を目指していた私に向かって、
「伴奏の曲も練習して、頼まれたらどんどん引き受けなさい」とおっしゃった。
また、藝大受験のために師事していた二期会の伴奏ピアニストのレッスンにも
そのまま通い続けるように指示された。
ダブルレッスンを先生自らが勧めることは、
当時の音楽の世界としては珍しいことだった。
譜めくりや先生のかばん持ちで、オペラの現場にもよく連れて行っていただいた。

2年生の選択科目「伴奏法」では、
ルツェルンの歌劇場でコレペティトールを務めて帰国したばかりの先生と出会った。
しかも、この先生は、私が十代の頃憧れたコンラート・リヒターの弟子でもあった。
なんという幸運な偶然だろう! 私はこの先生にも教えを乞うた。
こうして、私は3人の現役伴奏ピアニストを身近に見ながら、
伴奏のコツを身につけていった。

音楽では食べていけない?

音楽科卒業時には「優等賞」(首席)をいただくことができ、
卒業演奏会に出演してアリアを歌い、卒業式では総代を務めた。
そのまま上級課程である研究科オペラコースに進学した。
研究科オペラコースでの2年の学びを終えた後、
藤原歌劇団の研究生になり、
奨学金を得てイタリア留学を目指すつもりでいた。

私は経済面で一刻も早く父から独立しようと、必死になっていた。
在学中限りという約束で仕送りをしてもらっていたが、
父から援助を受けている限り、父の言いなりにならなければいけない。
それは、音楽家としての生命線を父に握られているということだった。

子どもの頃、父が「音楽家は河原乞食だ」と言ったことが忘れられなかった。
父を見返すためには、経済的に自立し、
きちんとした社会生活を送る姿を見せる必要があった。

父だけではない。
早稲田時代の友人たちをはじめ、いろいろな人から
「音楽で生計を立てるのは無理」と言われた。
私は腹が立った。
そんなことやってみなければわからないではないか。
音楽家が、ちゃんとした職業であることを、父と世間に証明したかった。

しかし、研究科進学後は、発声上の壁にぶつかり、喉の不調が続いた。
コンクールは一次予選で落ちた。
反対に、副科の気楽さもあってか、ピアノは終始順調だった。

友人の紹介でラウンジ奏者のアルバイトをするようになった。
ピアノ教室の講師の仕事を先輩から譲られて、一気に十数人を教えるようになった。

また、修行の甲斐あって、声楽の伴奏もよく頼まれた。
最初は同級生から、次第に先輩からも依頼が来るようになり、
最初は食事をごちそうになったりしていたが、
次第にギャラを払って下さる人も出てきていた。
研究科に進学する頃には、声楽の先生方から
レッスンや発表会での門下の伴奏を
仕事として頼まれるようになっていた。

声楽かピアノか

この調子でいけば、
十代の頃に憧れた伴奏ピアニストという仕事につけるのかもしれない―
伴奏で売れてくるにつれ、そういう気持ちが高まってきた。
諦めてきた夢が、再び目の前で形を取り始めた。
もともとピアノが存分に弾けないから声楽を選んだに過ぎなかった私は、
そうなると、ピアノを専門に勉強したくてたまらなくなった。

しかし、年齢的なハンデのない声楽に比べ、
25歳の自分が今更ピアノに転向しても、遅すぎるのではないか。
この年で、ピアノのテクニックや音楽性が向上するのだろうか。
そもそも、今も下宿にはピアノがない状態なのである。
ピアノを持たないピアノ専攻学生なんてあり得ない。
声楽が壁に当たっているから、逃げをうっているだけではないのか。

自問自答を繰り返す中、私は苦しかった大学1年の頃を思い返していた。
借り物ではなく、自分の人生を100%フルに生きたいのであれば、
世間体や目先の評価に惑わされず、自分の本当にやりたいものをやらなくてはいけない。
「お前は声楽が本当にやりたいのか、ピアノより好きなのか?」
自分にこの問いを投げかけることができたとき、
私の中で答えははっきりと決まっていた。
研究科オペラコースを1年履修した後、私はピアノコースに転科した。

伴奏者修行

結局、法律家志望から声楽家志望に転向し、
今度は更に、ピアニストを目指すことになったわけである。
その間の紆余曲折は、私の中では必然であるが、
他人から見れば、ただのふらふらと危ない人生を歩んでいる人間にしか見えない。
覚悟を示すために、家庭教師や添削指導のアルバイトは辞め、退路を断った。
バブル期だったこともあり、伴奏の仕事は結構、舞い込んできた。

研究科修了後は一切の援助はしないと父から言われていたが、
伴奏の仕事とラウンジ奏者やブライダルプレーヤー、
ピアノの出張レッスンなどを組み合わせて
在学中から既に自活できるようになっていた。

一方、3人の伴奏の先生たちのレッスンは厳しかった。
1回のレッスンが2-3時間になるのは当たり前。
課題の量も多かった。
テクニックに余裕のなかった私は、先生方の要求に応えられず、いつも泣いていた。
どの先生も現役で活動中だったから、
レッスンとはある意味「ライバルを育てる」ことでもあったはずだ。
だからこそ、先生方も伴奏者としての誇りとレゾン・デートル(存在意義)を賭けて、
全力で指導してくださったのだと思う。

半年後に研究科の修了を控えた時期に、
中古のヤマハのグランド(G3)を安くお売りくださるという方が現れた。
その頃住んでいた物件はピアノ不可だったので、
「自分が払える家賃のピアノ可物件が見つかったら買います」と返事をして、
音出し可の賃貸物件の多い江古田の不動産屋をしらみつぶしにあたり、
「風呂なし・グランド可、22時まで音出し可」という格安レア物件を発掘した。
これは私の進むべき道を、神様か宇宙か、
そういった何者かが示してくれているのだと思った。
自分の部屋にグランドが運び込まれた時の喜びは今も忘れられない。
19歳の時に自殺せず、この日まで生きていて本当によかったと思った。

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