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次のステージへ

特に売り込みをかけたわけでもなかったが、次第にバレエ伴奏の仕事が増えていった。

私はもともとバレエ伴奏とは全く縁のないところにいたおかげで、
一歩ズームを引いた位置から冷静に
「バレエ伴奏とは何か」ということを分析することができた。
そのため、自分の短所をカバーし、長所を売り込めるようなキャリア戦略を
意識的に立てて、それを演奏現場で発揮するようにしてきた結果だと思う。

駆け出しの頃には遥か遠くに見えた
都内の有名バレエ団や来日講師の講習会のお仕事も
数年のうちにお声掛けいただけるようになった。

一方、バレエで売れ始めた頃、
かつて歌の伴奏を発注してくれていた歌手たちが、
留学から帰国し始めていた。
成長した彼らの要求に、
これまでの自分の音楽づくりでは充分に応えられないと感じることが増えていった。
バレエと違い、歌の伴奏に対しては思いが強い分、
仕事に対しても自分に対しても、客観視できないところがあり、戦略的になれなかった。
よかれと思ってする努力が空回りることが増え、
どうしたらよいかわからぬまま、このままではだめだという焦りだけが募っていった。

そんな時期に出会った一人の歌手が、
次のステップへの途を開いてくれることになった。

彼は藝大出身。
日本音楽コンクール入選、ヴェルディの声国際声楽コンクール入選など
数々の賞歴を持っていた。
足掛け7年にわたるイタリア留学と演奏活動を切り上げて帰国し、
コンクールの伴奏者を探していたのだった。
私が伴奏を弾いていた歌手が、留学時代に彼と同門だった関係で、
私を引き合わせたのだった。

初対面で彼は私の伴奏について
「歌にただ合っているだけで、主張に乏しい。
まるで学生の伴奏で、それでは充分なサポートとは言えない」
「狭い舞台上で合うか合わないかは大した問題ではない。
劇場の客席で聴いた時に合うかどうかだ」
と言い切った。

彼がなぜ私を使う気になったのかは今もって謎だが、
彼の伴奏を経験することで、歌や声に対する私の考え方は一変した。
ひとまず藤沢オペラコンクールで、彼に入選をもたらすことはできた。
私は、私生活でも彼のパートナーとなったが、
彼はなかなか私の伴奏を認めてはくれなかった。

音楽観の相違から家庭内で衝突することも増えた。
当時、バレエで売れてきていたことも手伝って、
私は、怒りに任せて、歌の伴奏を一切弾かないと宣言してしまった。
二年ほどは、声楽伴奏から離れてバレエ伴奏に専念していたが、
ある日、私のバレエ伴奏を聞いた彼が、
「うまくなったね」と言って歌の仕事を紹介してくれたことで、
声楽伴奏の世界へ舞い戻ることとなった。

彼が紹介してくれたのは
「オペラサロン・トナカイ」というレストランの伴奏だった。
ここはオペラ好きの実業家が、若手声楽家育成のために私財を投じて作ったお店で、
毎晩ディナー付きコンサートが開かれていた。
ここでの数年間で、
百名以上の優秀な歌手と現場での実践経験を積むことができたのは、
声楽伴奏者として大きな財産になっている。
トナカイのオーナーは、若手演奏家の将来性を見抜く目利きで、
当時のトナカイに在籍していたアーティストたちの多くが、
今は我が国と世界の第一線で活躍している。

歴史と文化の街・台東区に拠点を移す

私は歴史や文学が好きだった。
ピアノの関係で、音出し可の物件が豊富な江古田に長らく住み続けてきたのだが、
生まれ育った関西のように名所旧跡のある地域に住みたくなってきた。
そこで、浅草や谷根千、上野公園が徒歩圏にある地に居を移す決心をした。
家を買うということは、社会人としての信用と実績を評価されることでもある。
大手都市銀行の住宅ローン審査を通過したことで、
音楽家としての自分が社会から認められた喜びと自信を持つことが出来た。

転居をきっかけに、私はコンサート・プロデュースの仕事も始めた。
音大を出たわけでもない自分が、子供の頃からの夢であった音楽家になり、
演奏1本で自立して、東京の地に居を構えることができた。
その感謝の表明として、ささやかでも文化の創造と発信を行い、
地域に貢献していこうと思ったのだ。
また、若い世代のために、
音楽家と仕事(経済的自立)、音楽による社会貢献という問題を
もっと突き詰めて考える場所が欲しかったこともある。
ARTS & HEARTS PROJECTと題されたこの声楽コンサートシリーズは、
2018年1月に第70回を迎え、現在も回を重ねている。
会場には、毎回国連食糧計画(WFP)のための募金箱を設置し、
募金総額はまもなく100万円に達する。
2018年4月には、器楽を中心とする若手演奏家のためのコンサートシリーズとして
新たに Salon de Muse が船出をした。

演奏現場での経験を研究者として形にする

演奏のキャリアは念じて引き寄せた面が強いが、
研究者としてのキャリアは偶然に後押しされてきた。
研究者としてスタートするきっかけは、昭和音大の講師試験で書いた論文だった。
採用時に、経営トップ直々に「演奏だけでなく、研究者として論文も書くように」と言われたのだ。
そこでとりあえず3本ほど、バレエ伴奏に関する論文を書いた。
しかし、研究が深まるにつれ、
バレエ音楽というものが、学問上のジャンルが複数重なったところに位置する、
実に扱いにくい研究対象であることが見えてきた。
とても自分の手に負えない…と思い、それ以上深入りすることは避けた。

それから十年以上の月日が流れた。
ある日、バレエピアニストの友人から
バレエ伴奏について研究している藝大の大学院生を紹介された。
そこで、藝大では、バレエやバレエ音楽を研究することが可能だということがわかった。
自分の力の無さから長い間中断してきた研究だが、
藝大という恵まれた環境下ならこれをきちんと結実させることができるかもしれない。
そう思ったら居てもたってもいられず、大学院を受験してみた。
思い立ってから試験まで2カ月しかなく、
仕事も繁忙期だったが、合格することができた。
メインの研究テーマは、19世紀パリ・オペラ座バレエとバレエ音楽について。
他にも日本歌曲、
特に戦前の台湾における唱歌や童謡の受容についても研究を行っている。
2018年3月に修士課程修了。
修了時には成績優秀者に与えられる「大学院アカンサス賞」をいただくことができた。
引き続き博士課程に進学し、研究を深めている。

ロシアピアニズムとの出会い

10歳ごろに最初のピアノの先生に疑問を持って以来、
ピアノのテクニックに関しては一貫して悩み、研究も続けてきた。

バレエの世界には、「ダンス・アカデミック」と呼ばれる万国共通の基本が存在する。
しかし、ピアノの世界は、指導者により言うことがまちまち。
「うまい」と評される人の多くは、
結局のところ、骨格的に恵まれた人、指が回る人だということが謎だった。

ピアノの構造や、物理的な音の伝わり方、解剖学的な観点が欠如したところで
奏法やトレーニングが語られるのも、理解できなかった。

こうした疑問は、
大野眞嗣先生と出会い、ロシアピアニズムを知ったことで、全て解決した。
1800年代に端を発し、ロシアで脈々と継承され、
アルゲリッチをはじめとする世界第一級のピアニストが採用する奏法と音色。
世界標準の本物のピアノを学びたいという子供の頃の願いが、ついに叶えられたのだ。

奏法を変えたことの効果は劇的で、
以前は苦労して練習してもなかなかうまくいかなかったパッセージが、
嘘のようにやすやすと弾けるようになった。
音色の多彩さも増した。
この変化は、特にバレエの仕事でご一緒するロシア人の先生方に好評である。

おわりに

最後に正直に告白するのだが、
私のような経歴の人間が音楽をさせていただいていることに、
ずっと一抹のうしろめたさを感じて続けてきた。
しかし、そのうしろめたさを克服するために、
必死で努力を続けてきたのも事実である。
おそらく人生の半分は通過したと思える最近になってやっと、
ここまで音楽で仕事をして暮らしてきたということは、
自分のことを音楽家として認めてよいのだろうと思えるようになってきた。

これまでは、自分が成長することしか考えてこなかったが、
これからは、自分が学んだことを、
人と分かち合う段階さしかかっているのだと感じている。
私が音楽からもらった生きる力、夢にむかって進むエネルギーを
今度は《高島ピアノ塾》を通じて、多くのみなさんに手渡していきたい。

音楽のある人生は素晴らしい人生だということ、
音楽は人間が一生を賭けるに足る立派な職業であるということ、
自分の人生を作っているのは自分自身だということ、
一見無理と思える状況でも、意志の力で道を切り開くことができるということ、
生きている限り、夢をあきらめてはいけないということ-
そんなことを、音楽を通じて次の世代へ伝えていきたいと願っている。