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中学時代

附属池田の試験科目は、国・算・理・社・体育実技・面接・抽選。
女子競争率は12倍(男子は19倍)だったが、合格した。
合格を祖母の墓前に報告。

上機嫌の父に対し、
「合格のご褒美にもっと指導力のあるピアノの先生に変わりたい」
と交渉を持ちかけたが、はぐらかされる。
中学で忙しくなったらピアノを辞めるだろうという父の本音がわかったので、
絶対に勉強と両立すると決意を固める。

附属池田には、クラシック音楽や文学・芸術の話題を語り合える子たちが大勢いた。
新入生歓迎会で、合唱部による《流浪の民》の演奏を聞き、
その伴奏のドラマティックなかっこよさに魅かれて、合唱部に入部。
2年生ではピアノ伴奏を、3年生では部長として指揮棒も振った。

合唱部の顧問は、小澤征爾指揮の《トスカ》にも出演した、
関西二期会の若手バリトン歌手だった。
この顧問から、ベルカント唱法や指揮法の基本を学んだ。
本格的な芸術の世界をのぞき見させてもらえて、嬉しかった。
FM放送やNHK教育テレビで、クラシック番組を視聴するようになり、
ドイツリートの世界には歌曲伴奏専門のピアニストがいることを知り、
憧れを抱くようになる。
特に、コンラート・リヒターというピアニストに強い尊敬の念を抱いていた。
ソロでは、サンソン・フランソワやディヌ・リパッティのピアノ演奏に魅了されていた。

自力で先生を変わることに成功

中学の友人の一人のママは、
大阪の名門ピアノ教室・金沢ピアノ塾(金沢考次郎先生主宰)出身で、
コンクール受賞歴もある方だった。
尼崎で大きなピアノ教室を主宰されていた。

この友人ママに私のピアノの悩みを相談したところ、
わざわざうちに電話をかけて、父を説得してくださり、
ついに中2の時に、先生を変わることに成功した。
たまたま我が家のそばに住んでおられた、
この友人ママの妹先生をご紹介くださったのだ。
この妹先生もまた、金沢ピアノ塾出身でやはりコンクール受賞歴があった。

最初のレッスンで、テクニックがまるで身についていないことを指摘され、
ツェルニーも、バッハも、ソナタも全部やり直すことになった。
「フォームもめちゃくちゃだし、指使いも変だし、
よくこんな状態で合唱部の伴奏を弾いているわね」と呆れられた。
しかし、それこそが自分の求めていた指導だった。言われて当然だと思った。
先生の指導に従い、1年間黙々と努力を続け、
「やっとよくなってきたわね。1年前はどうなることかと思ったのよ」
とおっしゃっていただいたときには涙がこぼれた。

高校時代

附属池田中学の場合、附属といっても高校にエスカレーター式であがれるわけではない。
1学年180人のうち、中3の定期テスト4回の順位が120位以上でないと、
そもそも附高への推薦が得られなかった。
推薦されても、外部受験生と同じ入試を受けなければならない。
基準に満たない者は不合格とされた。
幸い、私は合格することができた。

高校入学後も、ピアノを続けていた。
高1の後半ともなると、進路を考えなければならない。
当時の附高は大学進学率100%、
それも1学年180人中60人が東大か京大に進学するという全国屈指の進学校。
頭が良いということが、あらゆる価値の最上位にある世界だった。
心の中では、音楽の道に進むことを夢見ていたが、
担任にも友人にも、音大に行きたいなどとは、
とても打ち明けられる雰囲気ではなかった。
私自身も、目先の利益や名誉に目がくらんでいた。
文系科目を中心に成績が上位だったので、
皆から一目置かれる快適さを捨て去るのが惜しかったのだ。
私は音大志望であることを、ついに言い出すことができなかった。

それでも、音楽や芸術に理解の無い父から逃れたい一心で、
志望校は東京の大学に絞った。
司法試験の合格者の多い順に、東大・早稲田・中央大。
睡眠時間は毎日4時間ぐらいだった。

自分の心にうそをつき続けることで、私の精神は次第に不安定になっていった。
そんな中で、ピアノだけが救いだった。
この頃は、《イタリア協奏曲》や《ため息》を弾いていた。
勉強がいやになると、4-5時間ピアノに向かうこともあった。

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